喜左衛門ブログ:President Blog

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2019年5月15日 (水)

イタリア紀行・・・その4、ルネッサンスの精華・フィレンツエ

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ローマから列車で1時間半にてフィレンツェへ到着


イタリアの列車は20-30分間遅れるのは当たり前、イタリアらしいですね(^^♪
古代ローマの名将シーザーが、BC59年にアルノ川北岸に植民地として開いたのがフィレンツェのはじまり。
1125年に自治都市を宣言し毛織物業とメディチ家の祖業の金融業の中心地として栄えました。


広場には多くの人が集まります。
このあたりは絹織物の売買がされました。
昔、絹は黄金の価値があり、毛織物組合は大変な力がありました。
16世紀に作られた「新市場」にあるイノシシの像。
このイノシシの鼻を触ると願いが叶うというので、イノシシの口にコインを入れてピカピカのイノシシの鼻をなでました。
思わず、「ベス、元気でいてや」と祈りました。

街のシンボル、アルノ川に掛かる「ポンテベッキオ」(古い橋の意)
橋の上に店舗が並び、店舗の上には回廊があります。
メディチ家のウフィツィ宮殿(オフィスの事、本部)から橋の2階の回廊を通って、ピッティ宮殿につながります。

橋の上には金細工の店が並びます。今や、スーパーブランド店が並びます。

ウフィツィ美術館が見えます

ベッキオ宮殿(古宮殿の意)に来ました。かつてのフィレンツェ共和国政庁舎です。
94メーターの塔は市内どこからも目印です。


フィレンツェの紋章です。

市民代表(議員)500人が入れる会議場です。

ベッキオ宮殿の秘密の通路を案内され、ベッキオ宮殿の躯体(屋根裏)を見学しました。

石造りですが、躯体や屋根は木の柱になっており、ノートルダム寺院の火災による崩落がよく理解できました・・・
神曲のダンテのデスマスクです。

ウフィツィ美術館・・・メディチ家のウフィツィ{オフィスの意}が美術館になっています。


ルネッサンスの精華というべきメディチ家の美術品の数々です。
ジョット作の「玉座の聖母子」

ボッティチェッリの「ビーナスの誕生」

ボッティチェッリの「春、プリマヴェーラ」

有名なルネッサンスの名画が沢山ありました・・・

早朝の散歩に出かけました。
アルノ川の掛かるポンテベッキオ(古い橋)の遠景です。

花の聖母教会ドゥオーモの礼拝堂です。1296年から172年かけて作られました。

ドゥオーモの大聖堂です。

ジョットの鐘楼

その全景です。

サン・ロレンツォ教会、メディチ家の代々の菩提が祭られる教会


メディチ家の紋章

アカデミア美術館に行きました。ミケランジェロの彫刻とフィレンツェの絵画が一杯あります。
ミケランジェロのダビデ像。これぞオリジナルです。

彼の習作です。



大理石像が沢山あり、美術を目指す学生がデッサンをしたり彫刻をしたりしました。
ここで多くの芸術家の育成をしましたが、今もその伝統は続いているようです。

◆メディチ家の人たちと栄枯盛衰
・老コジモ(1389-1464),強い意思と個性の持ち主でメディチ家の発展の土台を築いた
美術と哲学の造詣が深かった。1433年、反対勢力の貴族にフィレンツェから追放されるが
彼の人柄と手腕を知る市民の支持で復帰、たくましい人ですね。

・痛風病みのピエロ(1416—1469)、48歳で父コジモの跡を継いだ。
性格がやさしく博識でビジネスを健全化させました。

・豪華王ロレンツォ(1449-1492),皆から豪華王とよばれ、巧みな駆け引きで死地を脱し、フィレンツェを繁栄に導いた。
しかし、かれの晩年、銀行業は斜陽になり彼もビジネスへの情熱を失った。

・不運なピエロ(1472-1503)20歳で相続し2年後に戦争を巡る不利な講和を独断でしてフィレンツェ市民の怒りを買い追放され、11年後の戦いでガリリャーノ河口で溺死した。

銀行業は没落するが政治的に子孫は復権し、ローマ教皇をメディチ家から2人も輩出し、フランス王妃などへ嫁ぎました。

最後のアンナは、1773年、家族協定として最後のとしてすべてを寄付してフィレンツェに残しました。

メディチ家の事業承継、文化力の発信、栄光の歴史は素晴らしいですね。
ヨーロッパの歴史の厚み、弱肉強食の世界、想像を絶するものがありますね。
痛烈な勉強になりました。m(_ _)m