喜左衛門ブログ:President Blog

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2020年2月17日 (月)

野村克也はなぜ、国民的英雄になったか?

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京都新聞(2月12日付け)の第1面の記事

さらに、スポーツ欄、地域版、3面記事(社会欄)など全面4ページを大特集となりました。
天皇陛下の即位でもここまでは特集を組みません。

「巨人、大鵬、卵焼き」が、我々の子供時代の人気ものでありました。
長嶋茂雄(1936-、現在83歳)、王貞治(1940年ー、現在79歳)、
大鵬(1940年ー2013年、73歳で没)は、華やかなオールスターであります。
1960年(昭和35年)頃、私は小学6年生、そのとき、長嶋は24歳、王貞治は20歳、
大鵬は20歳、野村克也は25歳のアイドルスターでありました。
小学生は皆、草野球でONの真似をしてボール遊びをしたものです。

さて、本ブログの野村克也の話であります・・・・
◆1961年、日本シリーズで巨人ONと南海が激突

「俺のライバルは長嶋、生まれも育ちも全く違う。あいつにだけは負けたくないと思ってここまでやってきた。」(野村克也の言葉)

1965年、王貞治と談笑する・・

「王や長嶋がヒマワリなら、俺はひっそり日本海に咲く月見草」

1968年、400号ホーマーを記録した

1974年、南海で捕手兼監督を務める

通算600本の本塁打を達成(1976年)

◆郷里、京都府網野町にて
昭和10年(1935年)に生まれ、父は満州で戦死、母一人が一家を支える極貧の生活で育ち、
貧乏ゆえの劣等感にさいなやまされる。峰山高校の野球部から南海のテスト生として入団した。
苦節12年、1965年に三冠王を達成し、網野町をパレード

2018年、網野町にできた野村克也ギャラリーを見る野村克也

野村克也の郷里・丹後・網野町への深い思いは尽きることはなかった。

◆1989年10月にヤクルト監督を受諾
「1年目は種をまき、2年目には水をやり、3年目は花を咲かせましょう」
の名言は有名。
1990年、春季のキャンプで古田捕手をみるヤクルト監督の野村克也

1995年、日本シリーズでオリックスを破り、監督としてヤクルト2度目の日本一へ
その時の名言、「勇将の下に弱卒なし」

◆2007年、楽天のマー君が5失点しながらも9勝目をあげて、
野村監督は「マー君、神の子、不思議の子」の名言を吐く。
2009年、監督通算1500勝を達成し、田中将大投手からウイニングボールを受け取る楽天の野村監督

2009年10月、楽天と日本ハムのクライマックスシリーズで敗退し最後の試合となり、
試合後に両軍の選手に胴上げされた、野村監督「敵地であれだけねぎらってもらい、野球屋冥利に尽きる」

◆妻サッチーと二人三脚

2018年1月、死去した妻・沙知代さんへのお別れ会で・・・
「一言、ありがとうと言いたい、いい奥さんだった」
サッチーと死に別れてから、「寂しい・・」、「一人で弱い人間だ・・」などと、弱気な言葉を連発し、
世の中の哀れみを買いながらも、「強いノムラ、情の深いノムラ、妻思いのノムラ」へとノムラのイメージが変わり、
最期は60代、70代、80代に人たちにとって、「老残の人生のあるべき姿」として、広く共感を呼び、
2020年2月11日、84歳で逝去されました。
苦節84年間の苦労とサッチーとの別れの寂しさで、彼の人間的味わいが非常に深まり、
日本人の老若男女の心を打ち、日本国民全体から広く理解され愛されました。

愛すべき野村克也さん、ありがとうございました・・・合掌