喜左衛門ブログ:President Blog

喜左衛門ブログ:President Blog

2020年8月24日 (月)

ご近所の偉人・・・「大化の改新」の天智天皇。「戦国時代の戦略家」の蓮如上人

LINEで送る

日曜日、酷暑の中、山科の近所を2時間の散策をしました。
汗だくだくで、もう熱中症になりそうでした”(-“”-)”
山科盆地(山科区民13万人)は、京都の東山を越えて郊外の住宅地になります。

山科中央公園の横に樹木の茂った丘があります。
石碑に「山科本願寺土塁」とあります。

戦国時代、浄土真宗の第8代門主の蓮如上人(1415-1499年)が、山科に1キロ×800メーターの巨大な城郭寺院を作りました。
これは、その土塁の一角なのです。

当時、浄土真宗は弱小教団でしたが、蓮如は戦国時代を揺るがす巨大な宗教勢力に伸長しました。

蓮如上人は、御文(おふみ)という自分の言葉を木版でドンドン印刷して、全国の信者へ配布し、坊主が一字一句そのまま信徒に朗読して熱狂させました。
浄土真宗(お東さん)の門徒である我が家では、540年前の蓮如さんの御文(お経)を未だに朗読しています。
浄土真宗の当時の宣伝方法は画期的で、蓮如のオルガナイザーの手腕は天才的でした。
後年(蓮如の逝去35年後に織田信長が誕生)、一向一揆や加賀に真宗共和国ができたり、戦国時代の一大勢力となります。
蓮如の広大なご廟(墓)は、拙宅から歩いて3分間の所にあります。

さて、ここが当時の浄土真宗の本山が山科にあった時(1480-1532年)の場所で、今は本願寺の山科別院(通称、西御坊)となっています。

長大な塀と川が寺を防御します。


山科本山から、大阪の石山本願寺に本山(1533-1580年)は移り、やがて、京都の現所(1591-西本願寺)へ移ります。
1603年、第12代教如上人のおり、徳川家康は巨大な真宗勢力を怖れ本願寺を東西の分割を命じました。
ここで浄土真宗は、本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)に分かれたしだいです。

ここは山科の東御坊です。

西本願寺の山科別院(西御坊)に対して、東本願寺も山科の蓮如上人の御廟近くに東御坊を建てました。


拙宅のすぐ近所に浄土真宗の中興の祖(蓮如上人)の御廟と、山科本願寺の跡があるのはご縁ですね。

 

さて、山科の東海道の街道沿いです。

拙宅の住所は御陵(みささぎ)大津町ですが、この御陵とは天智天皇のお墓のことです。

天智天皇(626-672年、在位668-672年)と
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、2番目の皇子の意味)は同一人物です。

中大兄皇子は才智に富んだ人物で、19歳の時、中臣鎌足と組んで、645年に蘇我入鹿を暗殺し、「大化の改新」をします。

大化の改新は画期的でした
① 公地公民(民と田は豪族のものから天皇・公のものとしました。)
② 地方行政制度をつくる
③ 戸籍、計帳(民と田の台帳整備)を始める
④ 税をとる
中大兄皇子は、三代の天皇の皇太子として、軍事、外交などで手腕を発揮します。
この間、飛鳥から難波の宮(大阪652-654)への遷宮、661年に蝦夷征伐、663年に白村江の戦い(唐・新羅連合軍vs日本・百済連合軍。日本惨敗)、そして自ら天智天皇に即位して近江宮(滋賀県大津市)へと遷宮し、近江令(日本初の法律)を発します。

拙宅の近所にある御陵にある天智天皇の日時計です。

天智天皇陵です



中大兄皇子はキングメーカーとして三代の天皇のもと、権謀術数を使って政治を動かし、次々と大きな改革を成し遂げ、やがて天皇となって近江宮(滋賀県大津)に遷都して、4年後、48歳で亡くなりました。
亡くなるとき、忠臣の中臣鎌足に藤原姓を与え、後年、藤原氏は平安時代の天皇家を支える最大の貴族として活躍します。
歴代の中で、特異な手腕をもった天皇でした。「激動の飛鳥の時代」ですね。

山科はいまでも、田んぼがあり野山は樹木で覆われています。

古代ロマンと戦国ロマンはいかがでしたか?
天智天皇の48年間の生涯は、大化の改新を通じて、律令制度を作り、「飛鳥・奈良・平安時代の基礎」を作りました。
蓮如上人の84歳の生涯は、鎌倉時代に発した親鸞(しんらん)の弱小の浄土真宗を、「戦国時代に織田信長の向こうを張る宗教勢力」に作り上げました。

酷暑のみぎり、小生の熱い思い(ブログ)をご覧頂き、恐悦至極、感謝の至りです<(__)>
ありがとうございます。!(^^)!