喜左衛門ブログ:President Blog

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2021年6月9日 (水)

町内の偉人

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毎月歩く散歩コースに、天智天皇の御陵があります。
3日前の日曜日もやや汗ばみながら、気持ちのいいひとときを御陵の森ですごしました。
私の自宅は「山科区御陵大津畑町」で、御陵(みささぎ)はとは天智天皇の御陵です。
この偉人とは、わが町に眠る天智天皇の話であります。
天智天皇陵は珍しく東海道に面しており、京都と大津(滋賀県)の中間の山科にあります。

実に立派で荘厳なエリアです。

奥は山ですが、山すそには疎水(明治時代に建設された運河、上水道)が走っており、御陵の正面入口(南側)は東海道、奥山(北)は疎水ということになります。

今の天皇の直系の元祖、スーパーヒーローである天智天皇(626-672、46歳で没)について、紹介しましょう。

◆天智天皇というと「小倉百人一首」の1番バッターの詠み手です。

秋の田の仮庵(かりほ)の庵(いほ)の苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は、露にぬれつつ
現代語訳:秋の田のほとりにある仮小屋の屋根のふいた苫の編み目が粗いので、私の袖は露に濡れていくばかりだ。
(恋しい人を仮小屋で待っていて、来てくれないので私は夜露ですっかり濡れてしまった)
こうしてみると、素朴なようで中々、意味深長な恋歌ですね・・・

◆大化の改新(645年、19歳)
豪族の中で権力を牛耳っていた蘇我入鹿を、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と組んで中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、中大兄とは大兄の次の皇子、のちの天智天皇)は、皇極天皇の目前で暗殺します。

後年、天智天皇は中臣鎌足へ藤原姓を与えて、平安時代に栄華を築く藤原氏の始まります。
天皇の面前で、皇子が暗殺に直接手を下すとは大変な時代であり、権謀術にたけた人物像が浮かび上がります。

◆白村江の戦い(663年、37歳)
朝鮮半島の盟友の百済(くだら)が新羅(しらぎ)に滅ばされ。危機感を感じた中大兄皇子は出兵を企てましたが、白江村の戦い(663年、37歳)で惨敗し、唐に遣唐使を送ります。
国土防衛のため、水城や烽火(のろし)・防人を設置しました。
中大兄皇子は、何とも豪胆で現実感のある政治的判断をくだしますねぇ。

◆中大兄皇子は、飛鳥から近江大津京に遷都し、ようやく天智天皇に即位します。

長い間、皇太子として、身内から天皇を次々擁立し、政策の立案者、キングメーカーとして辣腕を振るいました。
天智天皇は、日本国にとって重要な政策を次々実行します。
・冠位を二十六階定め、行政機構の整備をしました。
・公地公民制度・・・日本最古の戸籍を作成し税への布石をしました。
・時刻の制定・・・・漏刻(660年、水時計のこと)を作り、大津京に新台をおいて鐘鼓をうって時報をはじめました。
・671年にはグレオリオ暦を制定しました。(6月10日は時の記念日をなりました)

大津京の跡に、1940年に近江神宮を作り、天智天皇を祀りました。
(“小倉百人一首の聖地”であり、“時”の神様ですね。)

◆崩御
天智天皇は、671年に病に倒れました。
673年に壬申の乱がおこり、大海人皇子が大友皇子に勝って天武天皇となりました。
770年に光仁天皇が即位し、以降は天智天皇の系統が現在まで続いています。
天智天皇の御陵に参拝しました。

すぐ近くまで参拝ができます。


近くにお住まいの方は、是非、ご参拝ください。