喜左衛門ブログ:President Blog

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2023年5月8日 (月)

連休に京都国立博物館の「親鸞(しんらん)展」を鑑賞しました。

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京都国立博物館にて「親鸞展」が開催されました。

親鸞聖人(1173-1263、90才没)が生まれた頃は、平安時代の末世、貴族社会が没落し武家社会が台頭する混乱期、疫病が流行り、コロナの現世とよく似た世情かもしれません。
親鸞聖人は今から800年前に生まれ、9歳で出家し比叡山(天台宗)で修業しました。
29歳で比叡山を下り、六角堂(開祖は聖徳太子)で100日間籠り観音様のお告げで法然上人(浄土宗の開祖)の弟子となりました。
親鸞は聖徳太子を生涯あがめ、40歳年長の法然上人を一生、師として仰ぎます。

33歳で親鸞は法然上人(1133-1212、79歳没)から「選択集」を伝授され、書写が許されました。(重文、東本願寺蔵)

「南無阿弥陀仏と一心に唱えるだけで浄土にいける」という浄土教の教えは、比叡山の延暦寺、奈良の興福寺の怒りを買い流罪となり、35歳で親鸞は越後(新潟県上越市)に流れされました。
「師資遷謫」(越後流罪)(重文、東本願寺蔵)

この頃から、親鸞は自分のことを「愚禿」(ぐとく)と呼びます。
禿(はげ、坊主の蔑称)で、煩悩の多い俗人にも劣る愚かな自分を恥じて、親鸞は「愚禿」と自称しました。
39歳の時、流罪は解かれましたが、42歳で越後から関東に移り、教えを広めました。

流罪によって、親鸞は非僧非俗の立場(愚禿)を貫きました。

親鸞聖人が帰依した七高僧

インド僧の龍樹、天親、中国僧の曇鸞、道綽、善導、日本の僧の源信、源空(法然上人)
正信偈に皆、登場する高層ですね。
普通は、宗祖は根拠となる経典のみを示すものですが、親鸞は人(師)を大事してその教えを糧(かて)としました。

快慶(1150-1250)が彫った阿弥陀如来(重文)

運慶の兄弟の快慶は、法然、親鸞に対して多くの阿弥陀仏の彫像を制作しました。

◆850年前、親鸞聖人が52歳、「教行信証」の執筆をほぼ完成します。
親鸞が書いた教行信証(坂東本、国宝、東本願寺蔵)


教行信証の末尾に出てくる「正信偈」は、浄土真宗の門徒が朝夕に読経にしています。
浄土真宗の立教開宗は、この教行信証の成立した1224年としています。
親鸞聖人は自分で教祖になる気はなかったのでしょうが・・・

◆60歳で京都に戻り、多くの経典や手紙を書きました。
親鸞聖人影像(国宝、西本願寺蔵)

観無量寿経・註(親鸞筆、国宝、西本願寺蔵)

親鸞聖人83歳の坐像

親鸞聖人影像(賛は蓮如上人、国宝、西本願寺蔵)

親鸞は「弟子をとらず」を一生貫きました。
親鸞は仏の弟子を自認し、親鸞を慕う者はみな仏弟子だと言いました。
84歳、長男の善鸞(1217-1286)を宗教上の誤りから義絶して追放します。
悲嘆にくれた親鸞は、覚信尼(1224-1283)に後事を託すようになります。
親鸞は晩年に多くの書物を著述しました。
90歳、京都で亡くなりました。
その10年後に、娘の覚信尼と弟子たちはお堂を建て、これがのちの本願寺となります。
浄土真宗は本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)はじめ真宗10派といわれ、門徒800万人といわれる教団に発展しました。

京都国立博物館にて「親鸞、生涯と名宝」は、5月21日まで開催しています。

後期
拙宅は近江の五個荘金堂町の寺(浄土真宗大谷派)の門徒で、代々、形ばかりの檀家総代を務めています。
私の祖母は熱心な真宗の門徒で、東本願寺の総会所(説教場)に通いご開山上人(親鸞のこと)を信心し、名僧のお説教を沢山テープにとって、毎日和裁をしながら聞いておりました。(小生は8歳の頃からテープレコーダー係でした)
父は、若い頃に京大のインド哲学に憧れましたが、家業の都合で法学部に入学しました。
第2次大戦で兵隊として6年半も中国の戦地をさまよい、戦後はいつも教行信証を読み、「親鸞の心」へ近づこうとしていました。

今回の「親鸞展」は850年の歴史をさかのぼり、古文書、掛け軸、仏像などを通じ、真宗10派の浄土真宗教団の枠を越え、京都国立博物館の企画展は素晴らしいものでした。
時間を忘れるひとときでした。